セクシャリティの名称を明示することについて考えた
これまでに、「主人公はアロマンティック・アセクシャルです」と明示された映画があっただろうか。
私は知らないが、あったら教えてください、取りあえず観るので。
主演の三浦透子さんのインタビューをラジオで聞いた。(FM802 IVENING TAPにて)
三浦さんは「アセクシュアルの女性が主人公です」とハッキリ言っていた。
ドライブ・マイ・カーの俳優さんがいい声で「アセクシュアル」言うとる!と何だかソワソワした。見に行かねばと思った。
プロモーションでセクシャリティの名称を出すということは、なかなか覚悟がいることだと思うし、生半可なものは作ってませんという意思表示だと思った。まず、その真摯な態度に敬意を表したい。
現実に今を生きているマイノリティを映画にするということは、人間動物園になってしまう危険性をはらんでいる。
というか、実際、どうしたって人間動物園だと思う。何かを戯画化する時点でどうしてもそうなる。人道的な人間動物園か、普通の人間動物園か、悪質な人間動物園かに分かれるだけである。
私はこの映画は少なくともひどいやつじゃなさそうだと判断して観に行ったが、当事者の中にはそれができない人もいるだろう。当然のことである。
実はアセクシュアルという言葉は出てこない
ところで、主演俳優のインタビューでは主人公の佳純はアセクシュアルであると明言されているものの、作中では佳純は自分はアセクシュアルであるとは言わないし、他の人物も言わない。
予告やポスターでもこの言葉は使われていない。
この理由について、映画のパンフレットにある玉田監督のインタビューを引用する。
名前をつけてしまうと、一部の人から「そういう特別な人の話なんだ」みたいに客観的に捉えられてしまうかもしれない。それは避けたいなと。自分に何か違和感を持っていたり、それについて悩んでる人の話というふうに開かれていたほうが、自分の話として観やすいんじゃないかと思ったんです。
現在のアセクシュアルの認知度の低さからして、この意見はある程度理解できる。
ただ、客観的に捉えたっていいのではないか、無理に自分の話として観なくてもいいのではないか、と思う。
というか、現に主演の俳優や脚本家が主人公はアセクシュアルであると明言しているので、それはすでに避けられない事態になっているだろう。どうやら製作者側全員でその辺の意識を共有しているわけではなさそうだ。
よって、私は、この映画で佳純が自分はアセクシュアルだと言わないのは「この映画の時間軸に存在している佳純は言えない状態にある、あるいは言わないことを選択しており、そのままこの映画の時間が終了した」から、つまり製作者の意図ではなく、そこから離れた主人公・佳純の人間性やあり方がその理由である、と解釈している。
佳純がアセクシュアルであるとアイデンティファイしないのか、できないのか、言わないのか言いたくないのか、それは分からないが、何らかの理由で「自分はアセクシュアルだ」と言うことがしっくりこない状態にあるということだと。
ラーメン屋に迫られた時に、書籍の記述のような説明をしていたので、知っているのは間違いないと思うので。
ああ、何で恋愛のこととなると他人とここまで通じなくなるのか、分からすぎて色々調べるよねと、あの場面は見ていて胸が苦しくなった。
ラーメン屋は存外人の話を聞かない奴だったので伝わらなかったが。
残念だったな、うまいラーメン屋に行けなくなってしまって。
自分をどう名乗るかは自由
私自身、長年自分のことを異性愛者の女性だと思い込んで生きてきた。
男性に対して唯一無二の関係になりたいとか思ったことなどいっぺんもないし、自分のことを女性だと認識できないときがあるにも関わらず。
自分が何者か、ハッキリ名前を付けられる場合もあるが、そうでない場合もあるものだよなあと思う。
今のところ、自分はアロマンティック・アセクシュアルですよと名乗るが、ノンバイナリーですとは名乗れないでいる。よりしっくりくる言葉を常に探している。
私は言葉が必要な人間なのだろう。
だって私は三浦透子さんみたいにただ浜辺に佇んだり寝そべったりするだけで背景を語れたりしないから仕方ないですよ。
いや、三浦透子さんは本当に素敵な俳優さんですね、惚れ惚れしてしまう。
劇中で佳純が「真帆ちゃんの声好きなんだ」と言っていたが、佳純ちゃんの声も好きですよ……と思った。主題歌も素晴らしかったです。