空飛ぶ餃子

Aro/Aceのオタクです。映画、漫画の感想・考察(ネタバレ全開)

(内容に言及あり)『オッペンハイマー』を観た

そういえば、原爆を題材にした映画を観たことがなかった。私が知らないだけかもしれないが、原爆を題材にした実写の映画を知らない。多分あったとしても数は少なそうだ。

それを思えば、原爆を題材にした映画を作っただけですごいことなのかもしれないが、観終わって思ったことは、これを作れるだけの資金や人間がそろっているなら、もっと強い反核映画を作れたんじゃないのか、ということだ。

核兵器に反対するならもっと徹底的にやってほしかった。

というのも、クリストファー・ノーラン監督は、息子が核よりも環境破壊の方が問題だと言っていて、若い世代の核に関する関心の低さに危機感を感じたことがこの映画を作ったきっかけになったというようなことを語っていたのに、その割には妙にぬるい映画だったのである。

核兵器の存在自体が環境破壊であるのにも関わらず、核は何かすごい爆弾のことであって、核兵器なんかより環境破壊が問題だ、みたいな認識でいる若者を見て、有名な映画監督が作ったのがこの映画なのだとしたら、暗澹とした気持ちになる。

うまく言葉にできないのだが、私にとって重要なことだと思ったので、できる限り何がぬるいのか、言葉にすることを試みる。ただこの映画をボロクソに言っているだけになるかもしれないが。

 

 

この映画は、3時間にわたって、米国の原爆開発のリーダーである物理学者オッペンハイマーの苦悩を描いているというものであるが、アカデミー賞で作品賞や監督賞や編集賞を受賞したのは、その構成や演出が彼の苦悩に肉迫していると評価されたことがあろう。

 

確かに変わった演出だったと思う。

物理学者たちが議論をしている場面にあってもいちいち爆発音や、閃光やら炎やら波やらのイメージが挿入されるのだ。しかしこれがけっこうビックリするし、しんどくて鬱陶しかったので、私としてはただただ苦痛だった。

 

原爆投下後、オッペンハイマーが演説する場面で、閃光とともに聴衆の皮膚が剥がれるような幻想を見たり、歓声がまるで断末魔のように聞こえるような表現は、技術として優れているとは思うのだが、これは実際に起こったことであって幻想ではないのだし、実際にそれを経験した人達が今も生きていて生活している以上、良い表現とはとても思えない。

 

そして重要と思われる場面で古い言葉の引用がここぞとばかりに出てくる。

冒頭から「プロメテウスの火」の話が出てくるのだが、好みの問題かもしれないが、重要な場面でギリシャ神話のような古い西洋の言葉の引用を見ると白けてしまう。なんだか高尚ぶっている感じが鼻につくし、借り物を全面に出すと他人事っぽくなってしまうからだ。

他人事にしたいなら分かるのだが、したくないならこういう引用はしないほうがよいんではないか。

オッペンハイマーは実際に古代インドの書物を好んで読んでいて、「我は死神なり、世界の破壊者なり」という一節を引用していたようだ。オッペンハイマー自身がその苦悩のためにインドの古典に何かを見出すのは分かるとしても、映画の中で性行為の最中で愛人にインドの本を読まされるという流れは必要だったのか。

というかここで東洋の書物を引用するというのが、オリエンタリズムのようなものを感じずにはいられず何だかイラッとしてしまった。

 

さらに引っかかったのは、カラーとモノクロの切り替えである。

どうやらストローズが中心になっている場面というか、オッペンハイマーからではない、外から見た場面ではモノクロになっているようであったが、ということはカラーの場面はオッペンハイマー視点であるということになるが、カラーの場面も何だか他人事っぽく感じるので、この演出が果たして効果的だったのか、よく分からなかった。

 

それにしても、この映画の性描写は随分と奇妙なものであった。

ただしこのへんは自分のセクシャリティアセクシャルスペクトラムであること)が影響しているような気もするし、評価しづらいところではあるが。

量子力学について教えて、からの揺れたい、からのベッドシーンへの流れや、聴聞会で椅子の上で公開セックスみたいになっているところはほんとに可笑しくて、映画館で必死に笑いを堪えていたのだが、これは私が性的なものを滑稽に感じてしまうせいかもしれない。何か申し訳ない。

 

 

個々の描写はともかくとして、どうしても気になるのは、「広島」「長崎」の言及があるものの、その存在は映像として出てくることはなく、ただのイメージと犠牲者の数字でしか描かれなかったことである。

自分が何度も訪れたことのある場所や、直接話した人々のことが、イメージや数字としてしか語られない、というのは何か不穏で奇妙な感覚をおぼえる。

被曝者や、広島や長崎に縁が深い人からするとまた異なる思いがあるだろう。

オッペンハイマーが、相手にお前に日本の何が分かるのかと言う場面があったのだが、ではオッペンハイマーはどうだったのだろうか。これもよく分からない。

原爆を開発した偉大な物理学者ですら国家の下ではただのコマにすぎない、もはやコマですらない取るに足らない存在になってしまう、というのはまあそうだろうなとは思うが。

爆心地の映像を出すべきだったとも思わないのだが、広島と長崎をイメージと数字にとどめたのは、どうしてもメタ・メッセージとして働いてしまうような気がする。

原爆による惨状よりもあのヘンテコなセックスシーンが優先なんだなーとつい思ってしまうし実際そうだ。ヘンテコセックスシーンは入れて、原爆の惨状は入れていない。セックスシーンと比較するのはおかしいかもしれないので、実験での炎を引き合いに出すと、あれはちゃんと尺を取ってちゃんと描いていたわけである。

広島と長崎で原爆を経験した人々のことは、世界で、というか日本国内ですら、イメージや数字に押し込められているところがある。イメージ化や数字化することで、実際の人間を消すことになる。普通に飯を食ったりする現実の人間としてみなされなくなるということである。

日本で暮らす私は被曝者と直接接する機会があるが、現実の人間とイメージとしての原爆の乖離に子供の頃からずっと混乱し続けている。どうあっても現実の人間のことでしかないのに、何の話をしているのだろうか、という思いがずっとある。

この映画ではイメージと数字のみで原爆による虐殺を否定的に表現しているのだが、原爆はその後人間に対しては使われていないものの、現実に現在進行系で虐殺とその正当化が行われているこの世の中では、この方法は否定になり得ないのではないか。

作中でストローズは「オッペンハイマーは犠牲者のことなど考えていないのだ」というようなことを言う場面があるが、どう考えても犠牲者のことを考えてなさそうなのはストローズの方なのである。

こういう表現の嫌なところは、「お前たちは犠牲者のことなど考えていない」と言う人々を、自分のこともわかっておらず、ものごとを表面的なところで捉えているように見せることができる点である。つまり、「この映画では犠牲者の姿を描いていない、考えていない」と批判する者たちの考えを先取りして馬鹿にしているような気がするということである。お前たちは表面的なところだけを見て文句を言っているが、俺達はもっと深いところでものごとを見ているのだよ、みたいな。さすがにこれは考えすぎだと思いたいが。

ヒロシマナガサキがイメージと数字で語られていることはただの現実の一端であって、そのことを今更映画で示しているところを見ると、どうしても穿った見方をしてしまう。

 

私はどうやらこの映画それ自体より、この映画を観る前に知ったこと、この映画が有名な賞を取ったりして称賛されていることに対してウンザリしているような気がする。

今もこの世はただ生きているだけの人々を大量に虐殺した挙げ句それを正当化する、そういう世界であり続けている。

その中で、そうして死んでいった人たちや、その経験を経て今も生活している人たちのことは、イメージや数字に押し込めて済ませられる、その非対称さそのものに対しての憤りがある。

 

今後、原爆を題材にした映画がいくつも、色んな視点から作られたらそれを観たい、とは思う。ただ虐殺されるべき存在とされた人々を消したものはもういい。そんなぬるい映画では、ただ人が殺されまくって、戦争だから仕方ないねと言っているような世界を拒否することができない。

せめて創作では、虐殺を徹底的に拒否し抵抗するものを見たい。