空飛ぶ餃子

Aro/Aceのオタクです。映画、漫画の感想・考察(ネタバレ全開)

(内容に言及あり)『オッペンハイマー』を観た

そういえば、原爆を題材にした映画を観たことがなかった。私が知らないだけかもしれないが、原爆を題材にした実写の映画を知らない。多分あったとしても数は少なそうだ。

それを思えば、原爆を題材にした映画を作っただけですごいことなのかもしれないが、観終わって思ったことは、これを作れるだけの資金や人間がそろっているなら、もっと強い反核映画を作れたんじゃないのか、ということだ。

核兵器に反対するならもっと徹底的にやってほしかった。

というのも、クリストファー・ノーラン監督は、息子が核よりも環境破壊の方が問題だと言っていて、若い世代の核に関する関心の低さに危機感を感じたことがこの映画を作ったきっかけになったというようなことを語っていたのに、その割には妙にぬるい映画だったのである。

核兵器の存在自体が環境破壊であるのにも関わらず、核は何かすごい爆弾のことであって、核兵器なんかより環境破壊が問題だ、みたいな認識でいる若者を見て、有名な映画監督が作ったのがこの映画なのだとしたら、暗澹とした気持ちになる。

うまく言葉にできないのだが、私にとって重要なことだと思ったので、できる限り何がぬるいのか、言葉にすることを試みる。ただこの映画をボロクソに言っているだけになるかもしれないが。

 

 

この映画は、3時間にわたって、米国の原爆開発のリーダーである物理学者オッペンハイマーの苦悩を描いているというものであるが、アカデミー賞で作品賞や監督賞や編集賞を受賞したのは、その構成や演出が彼の苦悩に肉迫していると評価されたことがあろう。

 

確かに変わった演出だったと思う。

物理学者たちが議論をしている場面にあってもいちいち爆発音や、閃光やら炎やら波やらのイメージが挿入されるのだ。しかしこれがけっこうビックリするし、しんどくて鬱陶しかったので、私としてはただただ苦痛だった。

 

原爆投下後、オッペンハイマーが演説する場面で、閃光とともに聴衆の皮膚が剥がれるような幻想を見たり、歓声がまるで断末魔のように聞こえるような表現は、技術として優れているとは思うのだが、これは実際に起こったことであって幻想ではないのだし、実際にそれを経験した人達が今も生きていて生活している以上、良い表現とはとても思えない。

 

そして重要と思われる場面で古い言葉の引用がここぞとばかりに出てくる。

冒頭から「プロメテウスの火」の話が出てくるのだが、好みの問題かもしれないが、重要な場面でギリシャ神話のような古い西洋の言葉の引用を見ると白けてしまう。なんだか高尚ぶっている感じが鼻につくし、借り物を全面に出すと他人事っぽくなってしまうからだ。

他人事にしたいなら分かるのだが、したくないならこういう引用はしないほうがよいんではないか。

オッペンハイマーは実際に古代インドの書物を好んで読んでいて、「我は死神なり、世界の破壊者なり」という一節を引用していたようだ。オッペンハイマー自身がその苦悩のためにインドの古典に何かを見出すのは分かるとしても、映画の中で性行為の最中で愛人にインドの本を読まされるという流れは必要だったのか。

というかここで東洋の書物を引用するというのが、オリエンタリズムのようなものを感じずにはいられず何だかイラッとしてしまった。

 

さらに引っかかったのは、カラーとモノクロの切り替えである。

どうやらストローズが中心になっている場面というか、オッペンハイマーからではない、外から見た場面ではモノクロになっているようであったが、ということはカラーの場面はオッペンハイマー視点であるということになるが、カラーの場面も何だか他人事っぽく感じるので、この演出が果たして効果的だったのか、よく分からなかった。

 

それにしても、この映画の性描写は随分と奇妙なものであった。

ただしこのへんは自分のセクシャリティアセクシャルスペクトラムであること)が影響しているような気もするし、評価しづらいところではあるが。

量子力学について教えて、からの揺れたい、からのベッドシーンへの流れや、聴聞会で椅子の上で公開セックスみたいになっているところはほんとに可笑しくて、映画館で必死に笑いを堪えていたのだが、これは私が性的なものを滑稽に感じてしまうせいかもしれない。何か申し訳ない。

 

 

個々の描写はともかくとして、どうしても気になるのは、「広島」「長崎」の言及があるものの、その存在は映像として出てくることはなく、ただのイメージと犠牲者の数字でしか描かれなかったことである。

自分が何度も訪れたことのある場所や、直接話した人々のことが、イメージや数字としてしか語られない、というのは何か不穏で奇妙な感覚をおぼえる。

被曝者や、広島や長崎に縁が深い人からするとまた異なる思いがあるだろう。

オッペンハイマーが、相手にお前に日本の何が分かるのかと言う場面があったのだが、ではオッペンハイマーはどうだったのだろうか。これもよく分からない。

原爆を開発した偉大な物理学者ですら国家の下ではただのコマにすぎない、もはやコマですらない取るに足らない存在になってしまう、というのはまあそうだろうなとは思うが。

爆心地の映像を出すべきだったとも思わないのだが、広島と長崎をイメージと数字にとどめたのは、どうしてもメタ・メッセージとして働いてしまうような気がする。

原爆による惨状よりもあのヘンテコなセックスシーンが優先なんだなーとつい思ってしまうし実際そうだ。ヘンテコセックスシーンは入れて、原爆の惨状は入れていない。セックスシーンと比較するのはおかしいかもしれないので、実験での炎を引き合いに出すと、あれはちゃんと尺を取ってちゃんと描いていたわけである。

広島と長崎で原爆を経験した人々のことは、世界で、というか日本国内ですら、イメージや数字に押し込められているところがある。イメージ化や数字化することで、実際の人間を消すことになる。普通に飯を食ったりする現実の人間としてみなされなくなるということである。

日本で暮らす私は被曝者と直接接する機会があるが、現実の人間とイメージとしての原爆の乖離に子供の頃からずっと混乱し続けている。どうあっても現実の人間のことでしかないのに、何の話をしているのだろうか、という思いがずっとある。

この映画ではイメージと数字のみで原爆による虐殺を否定的に表現しているのだが、原爆はその後人間に対しては使われていないものの、現実に現在進行系で虐殺とその正当化が行われているこの世の中では、この方法は否定になり得ないのではないか。

作中でストローズは「オッペンハイマーは犠牲者のことなど考えていないのだ」というようなことを言う場面があるが、どう考えても犠牲者のことを考えてなさそうなのはストローズの方なのである。

こういう表現の嫌なところは、「お前たちは犠牲者のことなど考えていない」と言う人々を、自分のこともわかっておらず、ものごとを表面的なところで捉えているように見せることができる点である。つまり、「この映画では犠牲者の姿を描いていない、考えていない」と批判する者たちの考えを先取りして馬鹿にしているような気がするということである。お前たちは表面的なところだけを見て文句を言っているが、俺達はもっと深いところでものごとを見ているのだよ、みたいな。さすがにこれは考えすぎだと思いたいが。

ヒロシマナガサキがイメージと数字で語られていることはただの現実の一端であって、そのことを今更映画で示しているところを見ると、どうしても穿った見方をしてしまう。

 

私はどうやらこの映画それ自体より、この映画を観る前に知ったこと、この映画が有名な賞を取ったりして称賛されていることに対してウンザリしているような気がする。

今もこの世はただ生きているだけの人々を大量に虐殺した挙げ句それを正当化する、そういう世界であり続けている。

その中で、そうして死んでいった人たちや、その経験を経て今も生活している人たちのことは、イメージや数字に押し込めて済ませられる、その非対称さそのものに対しての憤りがある。

 

今後、原爆を題材にした映画がいくつも、色んな視点から作られたらそれを観たい、とは思う。ただ虐殺されるべき存在とされた人々を消したものはもういい。そんなぬるい映画では、ただ人が殺されまくって、戦争だから仕方ないねと言っているような世界を拒否することができない。

せめて創作では、虐殺を徹底的に拒否し抵抗するものを見たい。

 

 

 

 

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を観た(ネタバレあり)

夕方のアニメ鬼太郎の再放送を楽しみにしていた子供だった。漫画も好きだし、水木しげるの妖怪図鑑をずっと眺めていた。

 

もうすでに素晴らしい作品がたくさんあるわけで、もう見てるし、境港にも行ったし、今わざわざ鬼太郎の映画をやるからには半端な映画じゃ許さんぞ……みたいな気持ちで観に行った。

 

結論から言うと半端な映画ではなかった。近年稀にみる、社会批判精神が強く出た映画であったと思う。

 

社会批判の話もしたいが、ひとまず鬼太郎オタクとしての感想を述べたい。

ポスターからも予想はついてはいたものの、目玉になる前の目玉の親父と、鬼太郎を取り上げた(?)水木とのバディものであったことが何だか新鮮に感じた。

そのポスターであるが、何と父さんの姿が普通に描かれているではないか。しかも何かシュッとしたイケメンである。漫画では目玉になる前の親父はほとんどガイコツかゾンビかみたいな状態で、目玉がボトッと落ちるところは記憶にあるが、元気なときの姿は描かれていなかったように思う。母さんもほぼ死体みたいな感じじゃなかったか。

父さんがシュッとしたイケメンなので、定番の入浴シーンも茶碗じゃないからセクシーみが出てしまう、アクションシーンもめちゃくちゃスタイリッシュ、リモコン下駄めちゃくちゃ格好いい、でもこんなの僕の知ってる父さんじゃない!!などと混乱したものの、ちゃんと目の中で目を閉じるところに水木しげるみがあり、そこはちょっと安心した。

後で知ったが、新しいアニメでイケメン父さんは既出だったようで、皆さんそんなに驚いてなかったっぽいですね。

イケメンというと、水木もえらいシュッとしていて、美少女を誘惑したり、脱いだ浴衣のカットが入るなどの妙に艶かしい描写があったり、野心的であったりと、原作者と同じ名前なのにまったくイメージがかぶらない。これがもし印象がかぶるキャラクター造形だとシケるだろうから、この「水木」は正解だったと思われる。

 

それにしても、水木が血液銀行の勤め人というのは名案だと思う。

血液銀行など、若い人はあまり知らないのではないだろうか。とはいえ私も当時を知っているわけではなく、職業柄知識を与えられただけなのだが、この文言が登場した時点で、これはかなり大人向けだなあと思った。

血液銀行もそうだが、めっちゃ元気になる薬物と言うと、実際に戦後すぐくらいまでは市販されていたヒロポンを想起させる。覚醒剤がその辺で合法的に手に入るものだったことも、あまり知られてないのではなかろうか。

水木が、こういう明らかにやばいものを、当初はこの国の将来にとって良いものだと認識していたということが、この先の展開に生きていたと思う。

水木が軍隊上がりというのも、『総員玉砕せよ!』を思い出してまた読みたくなったところである。

 

この映画の素晴らしいところは、映像としての美しさ、面白さだけでなく、搾取を続けるためのシステムのおぞましさ、それを破壊する様を絵で描くという、シンプルなだけに強い社会批判アニメであるところなのである。

搾取の結果に築かれたものを「つまらない」というのは、水木しげるがずっと軍隊的なものをバカにしてきたことと繋がっていると感じた。『総員玉砕せよ!』に出てきたような上官の顔が、一族の長女に重なるところなどは、まさにそれを絵にした表現であるなあと感じた。ちゃんとアニメだからこそできる社会批判になっているのである。素晴らしかった。

 

ただ一点、これは私の願望だが、子どもがひどい暴力を受けたあげく無残に死ぬのを見るのはかなりつらいので、その点がこの映画を手放しで面白かったと言えない理由である。少女が親族から性暴力を受け、性を管理され、自分に生きる価値がないと感じた末に怨霊と一体化してしまうという展開、少年が幼い頃から親族に管理され、何の自由もなく、果ては身体自体を乗っ取られて死ぬというのは、批判的な文脈であれ、良い表現であるとは思わない。

あと母親がお腹の子どもを守るために生き延び、守り抜いた末に死ぬという描写も苦手だ。

 

とは言え、近年稀にみる骨のある作品であった。あとこんなに鬼太郎読み返したくなる映画他にないと思う。全巻セット買うかな。

 

 

 

 

 

 

 

(ネタバレ)ゴジラ-1.0 感想

これは定期的にゴジラが暴れているのを見たい人間のために最適な映画であった。

 

ゴジラの暴れぶりがとても良かったので、ドラマ部分の微妙さはひとまず脇に置いておく。

印象的なのは下からゴジラを見上げるアングルである。今までのゴジラ映画というと、上からの視点が多かった印象があるのだが、今回のゴジラでは人間の目線が意識されていたように思う。

とくに冒頭の場面、この時点でのゴジラはまだ小さめサイズなのだが、このサイズ感が重要で、巨大すぎるよりもかえって恐ろしい。人間をくわえて放り投げるところなどは何だか『進撃の巨人』みたいで味わい深かった。

巨大になってからのゴジラも良い。電車をかじるところなどはニコニコしながら見た。ここはかなり好きである。

ゴジラそのものの姿以外で言うと、戦艦を返してくるところがかなり良かった。『ロード・オブ・ザ・リング』に、オークの軍勢がカタパルトで味方の首を投げ返してくる場面があるが、あれを思い出した。ちょっと違うか。

ゴジラの鳴き声も怒れる怪獣!という感じで良かったし、とにかくゴジラは良かったので、ゴジラを眺める目的には充分かなう。

 

問題はドラマ部分である。

いつもは自衛隊とか米軍がドンパチやっているイメージがあるゴジラ退治だが、今回は何と民間主導でゴジラ退治をするという。

シン・ゴジラみたいに怪獣大戦争マーチが流れなかったのも自衛隊がない時代の話だからなのだろうか。

民間主導というアイデアは面白いと思うが、戦艦や戦闘機(震電を映像化したい!!という気持ちが強かったんだろうなと思った)を使うし、メインは元軍人で、「戦争に行っていない」水島や民間の船の活躍はわりかし地味だった。どうにも「民間主導」を生かしきれていないように思う。

あと、反結婚主義者としては、血縁のない子どもを引き取った典子と、敷島との関係が婚姻に帰結すべきという流れには乗れなかった。典子が明子の「母親」でなくてもいいし、敷島が「父親」になる必要もないしではないか。

日本映画に珍しい血縁でも婚姻でもない関係だ!!と一瞬嬉しくなったのだが、まあそりゃそんなもんか。

ついでに言うと、典子が主人公の情動の引き金になるために存在しているかのように見えて(ラストシーンで実は生きていて。首筋に不穏な影が這うところも含め)、これも納得がいかなかった。

とはいえ俳優の演技は最善を尽くしていたと思う。現代っぽさと昭和っぽさのバランスが何だか不思議な感じではあったが。

しかし出演していると知らなかった山田裕貴を見れたのは良かった。やはり声が良い。

そういえばなぜかモブに橋爪功がいたのがうっすら気になっているが、あれは友情出演か何かなのか?

 

しかしせっかくこんなに狂暴でいい感じのゴジラを描けるなら、もう少しドラマ部分も頑張ってほしいものだ。今後に期待したい。

 

 

 

 

 

(内容に言及あり)映画「君たちはどう生きるか」感想

感想を書こうとしても、インコが頭を占拠してしまうけれど、なんとか頑張って書きたいと思う。

 

なぜこの映画をこんなに「怖い」と思うのか、考えている。

まず、私は妊婦の腹に触れる場面でここまで不穏な表現をする映画をかつて見たことがなかった。なつこさんが眞人の手を取り、あなたの弟か妹ですよと明かすところ、怖すぎて縮みあがってしまった。

怖いというと、眞人が火事の夢を見たあと、父親となつこさんを階段の上から見る場面も怖かった。なんであんなに怖い恋愛の表現ができるんだよ、怖くてギブアップしそうだったが何とかこらえた。

そもそも父親が母親そっくりの妹と結婚するというのが怖すぎる。なぜだかわからないが、私はこの「死んだ妻そっくりの後妻」というものが怖くて仕方ない。なんでこんな怖い始まり方なんだ怖い。

それにしてもあの父親も絶妙に嫌味ですごい、学校に車で乗り付けるとかどう考えてもいじめられると思ったら案の定である。

その後眞人は自傷行為をするが、その時の血の表現も極めて怖い。

主人公が変な鳥に誘われて不思議な世界に行ったあとも油断できない。

老いたペリカンが死ぬ場面も背景の血の表現が怖いし、ずっとうっすら「死のにおいがプンプン」していて(主人公の眞人がそう言われていた)何とも不気味である。

わらわらを食べるペリカンや、燃えるペリカンとわらわら、なつこさんの産屋も何とも怖くて、これは人が産まれることへの得体の知れない恐怖を表現しているのだろうか、などと解釈した。

 

ところでインコたちは可愛いかった。包丁を持って食べようとしてくるのだが、鼻息が荒かったり包丁を研いでいたり、独特の愛嬌がある。「おまえには赤ちゃんがいないから食べる」と言われるところ以外は怖くない。いや怖いと言えば怖いが、子供のころ「注文の多い料理店」を読んで感じた怖さに似ていて、この怖さは嫌ではない。

 

しかし眞人は結局なつこさんを「母さん」と呼ぶし、ラストシーンで登場する子供の間抜け面を見るに、たぶん眞人は生まれてきた子供への恐怖はないのだろう。

そう、生まれてくると人間でしかないので、得体の知れない怖さはなくなるのである。

 

 

 

「埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡」を読んだ

トランスジェンダー二人の間で交わされるジェンダーセクシャリティに関するやり取りを見て、考えたことを書いておきたいと思った。

書籍の内容から離れたところに思考が飛んでいってもろもろ混乱したままで書く。

ほとんど自分のためのメモである。

 

ジェンダーアイデンティティがないとは

著者の二人は「性同一性がない」と表現していたが、これは少し驚きだった。私は性同一性がないことも性同一性だと認識していた。つまり女性だとか男性だとかノンバイナリーだとかのハッキリしたアイデンティティを持たない人にも「性同一性がないという性同一性」があると考えていたが、そういった考えを認識していながらも性同一性がないと考えている人にとってはないとしか言いようがないものなのだな、と思った。当たり前だが。

私は出生時に女性を割り当てられているが、自分が女性であるという実感は薄く、便宜上女性ということにしているという感じなので、私は女性なのだ!と堂々と言えない。ただ、女性であることはハッキリしないが、男性ではないことはハッキリしている。トランジションを経ていないことが著者二人の感覚と違う大きな要因だろうか?と思った。

なぜ男性ではないことがハッキリしているかというと、男性だと認識されたとき(お兄ちゃんと呼ばれた時など)にハッキリと「違う」と感じた経験が大きい。とはいえお姉ちゃんと呼ばれてもしっくりこないのであるが。それでもお姉ちゃん呼びを「違う」とは思わない。「そういえばそうだったな」くらいである。そういう差は明確にある。その差が私のジェンダーアイデンティティを構成する要素として大きいのかもしれない。

 

Aセクシャルであること

私はAセクシャルはパンセクシャルの反対みたいな感じだと思っている。Aセクシャルもパンセクシャルもすべての性別に対する惹かれ方を指しているからである。

が、この本を読むとやっぱり違うのかなあとも思う。よく分からなくなってきた。

私には性嫌悪はないし、性行為の経験も誰かに恋愛的好きを向けられた経験もないから分からないのかもしれないが。

それでも私がAロマンティックでAセクシャルであると言う時、そこには性への嫌悪はなく、ただ自然と沸き起こってこないなあというだけなのである。

だが他人と性行為はできないというのはハッキリとしている。嫌悪ではなく、ただ違う、これをするのは自分ではないと思う。一生行くこともないような異国の風習に対する感覚みたいなものである。

私はAro/Aceの人達の多くが経験するという、恋愛的/性的な文脈を読めないことによる人間関係の齟齬をあまり経験していない。友達との恋バナでは聞き専とかはあるが、友達だと思っていた人に「告白」されて関係が破綻した経験はない。

恋愛的、性的な文脈は理解できるのだが(多分)、その上で自分にはその欲求がない。理解できる(と思っている)から嫌悪や恐怖がないのかもしれない。

そしてやはり「女性として」恋愛や性愛に参加することはできないな、ということを再確認した。それをやるのは自分ではないというか、どこまでも他人事で現実味がない。

 

ポリアモリーについて

モノガミーなあり方が一般的であるのは私にとってとても不思議なことだ。なぜ好きな相手を一人に絞らなければならないのか。なぜ他の人を同時に好きになったら浮気や不倫になるのか。

不思議ではあるが、分かる気もする。

好き=モノガミー という前提を共有しているはずなのに、その前提を壊されるからではないだろうか。いわばゲームのルールのように、そういう前提でプレイしているのにルール違反をされたような、サッカーなのにボールを持って走られたらゲームにならないようなもので。

Aセクシャルの好きは確かにポリアモラスっぽい。みんなそれぞれ違う好きであって、一対一の関係に落とし込む必要はないというか、そもそも最初から一対一で唯一無二なのになぜ勝手に「恋人として」「女性/男性として」「性的なことをする相手として」などとまなざされなければならないのか、まなざさなければならないのか。不思議だ。

 

私は恋愛的/性的な文脈を理解できると述べたが、やはり理解できていないのかもしれない。

「性」を理解しようと「性」を取り扱った本をいくつも読んでいるのに、よく分からないどころか、ますます分からなくなっていくように感じる。

 

 

 

「金の国 水の国」感想

私は原作漫画「金の国 水の国」のみならず、作者岩本ナオさんのデビュー作以来のファンなので、めちゃくちゃ厳しい目で見るぜ…と思いながら観た。

映画の感想というか、原作との違いの話をする。

 

同じだけどなんか違う

ストーリーは原作とほぼ同じだし、絵柄や色彩も原作の雰囲気のままなのだが、何か決定的に違う。

岩本ナオ作品の好きなところは、淡々としているのに突如強烈にロマンティックな表現が飛び出てくるところなのだが、この映画はわりとずっとロマンティックだった。

アニメ映画になるとあのテンポ感を出すことに苦心するよりも、思いきってロマンティックに振りきる方が表現の幅が広がるのかもしれないと、好意的に解釈すればそういう感じである。

 

映画ではすっかりナランバヤルがヒーローっぽくなっていたが、私は原作でのヒーローはサーラだと思っている。ナランバヤルはむしろヒロインである。

ラストの逃亡劇の描写の原作との違いは、ナランバヤルが一人きりになるタイミングがあるか否かである。

原作ではナランバヤルが一人になったあと、隠し通路のレバーを引こうとしてびくともしない、そこにサーラが「お手伝いいたしますわ」とサラッと現れ、「今日は大変でしたね」と言い、「力を入れてくださいっ」とナランバヤルの手をしばくのである。

このシーンでのサーラのヒーロー感が好きだ。

おそらくアニメでの動きを出すためとか、尺とか、テンポとか、色々な事情でそうなったのだろうが、映画では「怖かったけど愛する人を助けるために頑張って来ました」感が強くなっていた。

 

あと、細かいところだが、ムーンライトがレオポルディーネとの出会いを思い出す場面がなかったのが少し残念であった。

レオポルディーネがムーンライトの美しさを「誰かが砂漠に落とした宝石」に例える場面である。

この作品ではサーラが容姿を侮辱される場面があるように、「美しさ」もテーマのひとつであり、この描写も必要だったと私は思うのだが、全てカットでしたね、何故だ。

 

まとめ

とはいえ、原作のロマンティックさ、可愛らしさは存分に再現されていた。

観たあと爽やかな気分になる、よい映画だった。

 

 

 

「レジェンド&バタフライ」感想

正統派ロマンティック時代劇

東映70周年記念ということで、流石に気合いの入った作品であった。

ワンシーンだけに有名な俳優が出ていたり、衣装や撮影等も何かお金がかかってそうだった。

ストーリーは正統派ロマンティック時代劇という感じで、いま時代劇で夫婦愛を描くとすればこうなるだろうなあという感じ。

 

はるか最高

綾瀬はるかは期待どおりのキレのあるアクションを披露してくれており、馬に乗っても弓を引いても凛として格好いい。惚れ惚れする。キムタクをシメるところではもうキュンキュンしきりである。正直もう綾瀬はるかだけ観れたらいいわと思う。

そう、私は「八重の桜」と「精霊の守り人」を観て以来、綾瀬はるかのファンである。

着物での体さばきがとても美しい俳優さんだなあと思う。

アクションだけでなく、剥き出しの野心、激情、殺意を隠さないところ、もうすべて好き。

ラストまでこのつよつよ姫のまま行ってくれても私は一向に構わないのだが、そこは正統派ロマンティック時代劇なのでそこまで攻めた構成ではなかった。

これは完全に私の好みの話なのだが、ホンワカ夫婦に憧れたり、お腹の子が死んだ時に側室に嫉妬する発言をしたり、信長に「子はまた作れば良い」と言われ「妾は歳じゃ、もう産めぬ」と返したのには少しガッカリした。そこはこう、死んだ子を再び作ることなど出来ぬわ、とか言ってほしかった。私の濃姫はそう言うので。

 

ダサいキムタク

母がキムタクファンで、実家にいた頃よくキムタク主演のドラマを見ていたが、ドラマのキムタクは、いつも格好よくて何でもできて余裕があった。

ところが今回のキムタクはけっこうダサいのである。

これはとても新鮮だった。

冒頭から綾瀬はるかに組み伏せられ、狩りでもまるで相手にならず、胆力でも劣る。

崖から落ちそうになって「おなごに助けられるのは恥」とか言いながらも、結局助けられて「誰にも言うな」とふて腐れるところなどは愉快であった。

とはいえ私は最近の出演作を知らない。実は最近のキムタクはけっこうダサい方向性でいってるのかもしれない。

 

よく分からなかったところ

主役二人で仲良くお忍びで市場に行くシーンがある。

異国の躍りに興じたり、カエルの置物(その後も登場するアイテム)を買ってもらって濃姫が少女のような表情をするところなどは現代劇でもありそうな感じだった。

 

そのロマンティックなデートシーンの後、スリの子供を追いかけるのだが、そこで二人が民間人を殺戮しまくり、廃寺?お堂?に逃げ込んでワッショイするとは誰が予想しただろうか。

濃姫からかぶりついてる感じは良かったが、その後濃姫はホンワカ夫婦に憧れるようになるので、最後まで観たあと、あのシーンよく分からんかったなあという印象になった。

私はどんな性描写を見てもたいてい唐突だと感じるが、この殺戮シーンは性描写よりも意味不明であった。

 

まとめ

やはりもう少し綾瀬はるかが暴れるところが見たかったが、この映画の場合はこういうまとめ方が正解なのだろうなあとは思う。

信長と濃姫が恋い焦がれ合っているとか、濃姫がめちゃくちゃ強いとか、信長がガチのうつけとか、明智光秀が若くて信長の幻影を愛しすぎているとか、面白い解釈だなあと思った。

 

時代劇は好きだが近年新作が少なくなっているように思う、もうちょっと色んな時代劇がみたいものである。