空飛ぶ餃子

Aro/Aceのオタクです。映画、漫画の感想・考察(ネタバレ全開)

「埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡」を読んだ

トランスジェンダー二人の間で交わされるジェンダーセクシャリティに関するやり取りを見て、考えたことを書いておきたいと思った。

書籍の内容から離れたところに思考が飛んでいってもろもろ混乱したままで書く。

ほとんど自分のためのメモである。

 

ジェンダーアイデンティティがないとは

著者の二人は「性同一性がない」と表現していたが、これは少し驚きだった。私は性同一性がないことも性同一性だと認識していた。つまり女性だとか男性だとかノンバイナリーだとかのハッキリしたアイデンティティを持たない人にも「性同一性がないという性同一性」があると考えていたが、そういった考えを認識していながらも性同一性がないと考えている人にとってはないとしか言いようがないものなのだな、と思った。当たり前だが。

私は出生時に女性を割り当てられているが、自分が女性であるという実感は薄く、便宜上女性ということにしているという感じなので、私は女性なのだ!と堂々と言えない。ただ、女性であることはハッキリしないが、男性ではないことはハッキリしている。トランジションを経ていないことが著者二人の感覚と違う大きな要因だろうか?と思った。

なぜ男性ではないことがハッキリしているかというと、男性だと認識されたとき(お兄ちゃんと呼ばれた時など)にハッキリと「違う」と感じた経験が大きい。とはいえお姉ちゃんと呼ばれてもしっくりこないのであるが。それでもお姉ちゃん呼びを「違う」とは思わない。「そういえばそうだったな」くらいである。そういう差は明確にある。その差が私のジェンダーアイデンティティを構成する要素として大きいのかもしれない。

 

Aセクシャルであること

私はAセクシャルはパンセクシャルの反対みたいな感じだと思っている。Aセクシャルもパンセクシャルもすべての性別に対する惹かれ方を指しているからである。

が、この本を読むとやっぱり違うのかなあとも思う。よく分からなくなってきた。

私には性嫌悪はないし、性行為の経験も誰かに恋愛的好きを向けられた経験もないから分からないのかもしれないが。

それでも私がAロマンティックでAセクシャルであると言う時、そこには性への嫌悪はなく、ただ自然と沸き起こってこないなあというだけなのである。

だが他人と性行為はできないというのはハッキリとしている。嫌悪ではなく、ただ違う、これをするのは自分ではないと思う。一生行くこともないような異国の風習に対する感覚みたいなものである。

私はAro/Aceの人達の多くが経験するという、恋愛的/性的な文脈を読めないことによる人間関係の齟齬をあまり経験していない。友達との恋バナでは聞き専とかはあるが、友達だと思っていた人に「告白」されて関係が破綻した経験はない。

恋愛的、性的な文脈は理解できるのだが(多分)、その上で自分にはその欲求がない。理解できる(と思っている)から嫌悪や恐怖がないのかもしれない。

そしてやはり「女性として」恋愛や性愛に参加することはできないな、ということを再確認した。それをやるのは自分ではないというか、どこまでも他人事で現実味がない。

 

ポリアモリーについて

モノガミーなあり方が一般的であるのは私にとってとても不思議なことだ。なぜ好きな相手を一人に絞らなければならないのか。なぜ他の人を同時に好きになったら浮気や不倫になるのか。

不思議ではあるが、分かる気もする。

好き=モノガミー という前提を共有しているはずなのに、その前提を壊されるからではないだろうか。いわばゲームのルールのように、そういう前提でプレイしているのにルール違反をされたような、サッカーなのにボールを持って走られたらゲームにならないようなもので。

Aセクシャルの好きは確かにポリアモラスっぽい。みんなそれぞれ違う好きであって、一対一の関係に落とし込む必要はないというか、そもそも最初から一対一で唯一無二なのになぜ勝手に「恋人として」「女性/男性として」「性的なことをする相手として」などとまなざされなければならないのか、まなざさなければならないのか。不思議だ。

 

私は恋愛的/性的な文脈を理解できると述べたが、やはり理解できていないのかもしれない。

「性」を理解しようと「性」を取り扱った本をいくつも読んでいるのに、よく分からないどころか、ますます分からなくなっていくように感じる。