空飛ぶ餃子

Aro/Aceのオタクです。映画、漫画の感想・考察(ネタバレ全開)

「THE FIRST SLAM DUNK」感想

とても美しい映画だったのだが、その美しさがかえって気になってしまい、美しくあるために削ぎ落とされているものは何かを考えた話。

 

ケアされない世界

簡単に言うと、この映画は、幼少期に父と兄と死別し、母親から虐待を受け、希死念慮がある少年がバスケで活躍して、ひとつの山を越えた話である。

つい、主人公のリョータからバスケを取ったらどうなるんだろう、と考えてしまう。

リョータ自傷的行為を繰り返しており、明確な意思があったかどうかはともかく、自殺未遂を起こしている。

いくら努力していても、生きていればまた山は来る。今度は越えられないかもしれない。

まして未成年の学生である。何らかの社会的ケアが必要だと思う。

 

もちろん母にも必要である。

田舎の古家に住んでいるわりに親戚が出ばってこないのが不思議だったが、たまたま縁者がいないか、いたとしても頼れる感じではないのだろう。

周囲に助けを求めたり、公的な支援を求める様子は出てこない。

この母は、長男が亡くなったあとしばらく堪えていたが、ついに次男に手を上げてしまう。

殴ったり叩いたりというわけではなかったように見えたが、あれは暴力と言っていいと思う。(子どもへの暴力が苦手なのであまりちゃんと見れなかったけど)

正直なところ、この精神状態でガラッと環境を変えて、よく生活を維持できたな、と思った。

神奈川に何らかの縁があっての移住なのだろうが、あの一家がどういう支援を受けているのかが見えない。

しいて言うなら、一家が住んでいる団地は公営住宅とかなのかもしれないが、公営住宅なかなか抽選当たらないよな、とか思ったりした。地域差があるのかもしれないが。

母親の生活面や人格もいまいち謎だ。

仕事は何をしているのだろう。看護師とか、比較的就職しやすく収入が安定する職についているのだろうか。

 

無害な?男性性

リョータがかなり魅力的に描かれていたのが、ちょっと引っ掛かっている。

いや、主人公が魅力的なのは当たり前だが、ちょっとオム・ファタールっぽいような気がするという意味で引っかかる。

三井がリョータに歪んだ愛情を抱いているとみられる描写が妙に印象深かったせいかもしれないが、三井以外のチームメイトも、彼に強い憧憬を持っているようである。

安西先生も「これは君の舞台ですよ」と言う。舞台の主役に例えるほど強い魅力があるのである。

つまりみんなリョータにメロメロなのである。

華のある鮮烈なプレー、内面の葛藤、母と兄への思慕、仲間との絆、海、死、全て美しいのだが、これらは無駄なものを排除し、すべてが主役のリョータを美しく見せるための舞台として機能している。

まさにこの映画は君の舞台ですよということである。

 

また、リョータの葛藤の由来が、ジェンダー規範によるもの、男ならばかくあるべきであるいう暗黙の了解に基づいていることが、物語の男性性の強化に大きく貢献している。

リョータが女性だったり、亡くなったのが姉だったりしたら、この物語の印象はだいぶ違ったものになると思う。というか、そういう話は少年ジャンプで人気連載にならないと思うけど。

 

リョータは自分の身が危うくなっても他人のせいにはしない。

自分との約束を破った兄をなじって以来、面と向かって誰かを責められなくなっているのではないかと思う。

自殺未遂を経ても「俺は母ちゃんを怒らせてばっかりだ」になる。あくまでも、母ちゃんを怒らせる「俺が悪い」のである。

物語の展開上、世の中が悪い、母親が悪いではダサいのである。

恐ろしいことに、自分を責めてしまう弱さというのはなぜか美しく見えてしまうのである。

 

妹がめちゃくちゃ冷静なのも、「妹を泣かせる兄ちゃん」はダサいし、妹が取り乱すと物語としてとっ散らかるからじゃないかと勘ぐっている。不器用な兄との対比の意味もあるだろうが。

妹はリョータと比較的良好な関係を築いているようだ。母と兄に確執があることは当然見抜いているし、兄が自殺しようとしたことも理解しているはずである。

私にはわりと仲のいい兄がいる。もし兄が自殺未遂したら、と想像しただけで涙が出ている。これ今半泣きで書いている。

あの妹は、たまたまつらいいことがあっても自分でうまく折り合いをつけられる子なのだろう。

でもたまたまである。あの妹だって、父と兄を早くに亡くした子どもである。しかも母と兄には確執があるし、兄には希死念慮がある。

実は独りで泣いているかもしれないと思う。

 

クライマックスで、彩子がリョータに「男だろ」と叫ぶシーンがある。

今、わざわざ女性の彩子にあの台詞を言わせた意味は何だろうか。

私は、男性性の補強のためだと解釈した。

ここ以外で、リョータが直接「男であれ」と求められる場面はないが、言葉を使わない方が強いということがある。当たり前のことには言葉が必要ない。

 

彩子と言えば、原作では、リョータが彩子に恋愛感情を抱いていると見られる描写があったが、今回はっきりそうととれるものはなかったと思う。(あんまり自信ない、Aロマだから?恋愛描写わからんとこある)

それもおそらく邪魔だったからだろう。恋愛描写はストイックさを弱め、ふつうの男子高校生っぽさが出てしまうというか、ちょっと野暮ったくなるのである。

リョータの母と彩子の台詞を重ねる演出も、恋愛っぽさの排除に一役買っている。

そもそも母親と女子マネージャーを重ねるイメージを使うのは悪手だと思うが、女神的な「母」以外の女性性はこの物語には野暮なので、彩子に母的イメージを持たせることで、登場させながらも排除するという離れ業を成し遂げている。

 

不良とか喧嘩とか運動部とか、そもそも男男した題材ではあるが、さらに少年誌的猥雑さを排除すると、極めてストイックで美しい、男たちの物語になる、ということがよく分かった。

あと、私はそういうものに多少の嫌悪感があるのだが、それでも美しいと思うのだな、ということにも気付いた。私は無意識のうちに、男らしさと美しさを接続する回路を作っているらしい。

 

ただ、この映画を今出したことの意味は何だったのだろうかと考えてしまう。

別にSLAM DUNKの登場人物がちゃんと社会的ケアを受けていても悪かないだろうと思うのだが。というか、私はそういうのが見たい。

 

ところで、花道はあのあとちゃんと医療的ケアを受けられたのだろうか。

今の運動部も怪我を我慢して頑張るのが美徳という空気があったりするのだろうか。

いろいろ気になってしまうので、この辺でやめにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アロマンティック・アセクシャルが見た「そばかす」

セクシャリティの名称を明示することについて考えた

これまでに、「主人公はアロマンティック・アセクシャルです」と明示された映画があっただろうか。

私は知らないが、あったら教えてください、取りあえず観るので。

 

主演の三浦透子さんのインタビューをラジオで聞いた。(FM802 IVENING TAPにて)

三浦さんは「アセクシュアルの女性が主人公です」とハッキリ言っていた。

ドライブ・マイ・カーの俳優さんがいい声で「アセクシュアル」言うとる!と何だかソワソワした。見に行かねばと思った。

プロモーションでセクシャリティの名称を出すということは、なかなか覚悟がいることだと思うし、生半可なものは作ってませんという意思表示だと思った。まず、その真摯な態度に敬意を表したい。

現実に今を生きているマイノリティを映画にするということは、人間動物園になってしまう危険性をはらんでいる。

というか、実際、どうしたって人間動物園だと思う。何かを戯画化する時点でどうしてもそうなる。人道的な人間動物園か、普通の人間動物園か、悪質な人間動物園かに分かれるだけである。

私はこの映画は少なくともひどいやつじゃなさそうだと判断して観に行ったが、当事者の中にはそれができない人もいるだろう。当然のことである。

 

実はアセクシュアルという言葉は出てこない

ところで、主演俳優のインタビューでは主人公の佳純はアセクシュアルであると明言されているものの、作中では佳純は自分はアセクシュアルであるとは言わないし、他の人物も言わない。

予告やポスターでもこの言葉は使われていない。

この理由について、映画のパンフレットにある玉田監督のインタビューを引用する。

名前をつけてしまうと、一部の人から「そういう特別な人の話なんだ」みたいに客観的に捉えられてしまうかもしれない。それは避けたいなと。自分に何か違和感を持っていたり、それについて悩んでる人の話というふうに開かれていたほうが、自分の話として観やすいんじゃないかと思ったんです。

現在のアセクシュアルの認知度の低さからして、この意見はある程度理解できる。

ただ、客観的に捉えたっていいのではないか、無理に自分の話として観なくてもいいのではないか、と思う。

というか、現に主演の俳優や脚本家が主人公はアセクシュアルであると明言しているので、それはすでに避けられない事態になっているだろう。どうやら製作者側全員でその辺の意識を共有しているわけではなさそうだ。

 

よって、私は、この映画で佳純が自分はアセクシュアルだと言わないのは「この映画の時間軸に存在している佳純は言えない状態にある、あるいは言わないことを選択しており、そのままこの映画の時間が終了した」から、つまり製作者の意図ではなく、そこから離れた主人公・佳純の人間性やあり方がその理由である、と解釈している。

佳純がアセクシュアルであるとアイデンティファイしないのか、できないのか、言わないのか言いたくないのか、それは分からないが、何らかの理由で「自分はアセクシュアルだ」と言うことがしっくりこない状態にあるということだと。

ラーメン屋に迫られた時に、書籍の記述のような説明をしていたので、知っているのは間違いないと思うので。

ああ、何で恋愛のこととなると他人とここまで通じなくなるのか、分からすぎて色々調べるよねと、あの場面は見ていて胸が苦しくなった。

ラーメン屋は存外人の話を聞かない奴だったので伝わらなかったが。

残念だったな、うまいラーメン屋に行けなくなってしまって。

 

自分をどう名乗るかは自由

私自身、長年自分のことを異性愛者の女性だと思い込んで生きてきた。

男性に対して唯一無二の関係になりたいとか思ったことなどいっぺんもないし、自分のことを女性だと認識できないときがあるにも関わらず。

自分が何者か、ハッキリ名前を付けられる場合もあるが、そうでない場合もあるものだよなあと思う。

今のところ、自分はアロマンティック・アセクシュアルですよと名乗るが、ノンバイナリーですとは名乗れないでいる。よりしっくりくる言葉を常に探している。

私は言葉が必要な人間なのだろう。

だって私は三浦透子さんみたいにただ浜辺に佇んだり寝そべったりするだけで背景を語れたりしないから仕方ないですよ。

いや、三浦透子さんは本当に素敵な俳優さんですね、惚れ惚れしてしまう。

劇中で佳純が「真帆ちゃんの声好きなんだ」と言っていたが、佳純ちゃんの声も好きですよ……と思った。主題歌も素晴らしかったです。

 

「キャシアン・アンドー」

推し目的で見たらめちゃくちゃ面白かった

 

私がスター・ウォーズシリーズで最も好きな映画は「ローグ・ワン」で、その登場人物の中で最も好きなのがキャシアン・アンドーである。

というか、フィクションの登場人物の中で最も好きなのがキャシアン・アンドーである。

 

「ローグワン」におけるキャシアンは、ジェダイでもパイロットでもなく、解放軍で後ろ暗い仕事ばかりしていて、ドロイドのK-2以外に友達がいないという最高の男であった。

「ANDOR」は「ローグワン」の前日譚であり、キャシアン・アンドー・ライジングなドラマということで、もし面白くなかったとしても、もうそんなことはどうでもいいという姿勢で臨んだ。

ところが、これがめちゃくちゃ面白いドラマだったのだ。

推しを眺められる上に面白いドラマ、最高である。

 

そのキャシアンだが、第一話ですでに女の人を誘惑したり、迂闊に殺人を犯してしまったり、冒頭からなかなかのクズっぷりを発揮している。

それなのに、母マーヴァに歴代彼女を列挙されたり、ドロイドのビーに振り回されている様子が愛らしい。とっさに殺ってしまうような奴にしては可愛すぎる。

とはいえ、冒頭のキャシアンはとにかく自分が生き残ることしか考えておらず、邪魔な奴はすぐ撃ち殺す。

この先こんな感じでドラマ的に大丈夫か?と心配になるくらいだったが、果たしてそれは杞憂であった。

 

成長はしない

キャシアンの言動は物語が進むにつれ変わっていくのだが、それは教訓を得てクズが真人間に成長する、というようなものとは違っていた。

主人公が成長しないと不思議な感じがしてしまうのは、少年ジャンプの読みすぎかもしれない。

キャシアンに影響を与える人物たちは、ただ生きた、あるいは生きているだけであり、キャシアンもそうなるべくしてなっただけなのだろう。

みんな自由を求めていたり、すべきことのために勝手に抗っている。

みんなそれぞれ妙に嫌なところがあったりするし、意外に根性あったりする。

それがとても良かった。

 

作中に登場するスピーチがどれも印象的だった。

私は自由を求める人の言葉が好きだ、勇気が出るから。

収容所のキノ・ロイのスピーチ、ネミックのマニフェスト、マーヴァのホログラム演説、どれも素晴らしかった。

これ書いた人は実際に何か帝国的なものに反逆しているのでは、などと思った。

(ネタバレだらけ)ブラックパンサー:ワカンダ・フォーエバー

長ーい葬儀

ティ・チャラの死と葬儀の場面から始まる本作。

葬儀の華やかな踊りや人々の笑顔、美しい白色の喪服が、どこか浮いているような感じがする。

その後も、ワカンダの人たちは何となく落ち着いておらず、シュリも女王もオコエ隊長も、みんな何か浮いている。

船や飛行機に乗っている場面が多く、棺も埋めたり燃やしたりするのではなく天に昇る。やはり何か浮いている。

みんなが王様の死に動揺していて、もはや映画自体が葬儀という感じだった。

 

背中を見失うと心細い子供

子供の頃、私はどこへ行っても年の離れた兄と姉を追いかけていて、くっついていないと気が済まず、置いていかれると二人が戻ってくれるまで泣きわめいた。

祖父母によくそのことをからかわれていたが、私は兄と姉を見失うことが本気で怖かった。大人になった今も、私は二人の後ろにいるという感覚が消えない。

シュリはお兄さんが前にいないことが心細くて仕方ないに違いない、と思って胸がギュッとなった。

シュリの取り乱しや戸惑い、怒りや孤独感はどうしても他人事と思えなかった。

エムバクに女王は戦争を望んでいないと言われ、みんな生きてるみたいに言うけど、あの人はいない、あの人の望みも存在しない、あるのは私の望みだと怒るのは子供っぽいと言えばそれまでだけど、正しい悼み方などなくて、人は頼りにしていた人が死んだらふつうに取り乱すよな、と当たり前のことを考えた。

ふつうのお話だと、兄が死んでも妹はさめざめと悲しむ程度だったり、他に庇護する者が現れたり、そもそも兄は妹を残して死なないし、妹視点になることはあんまりない気がする。バイオハザード2のクレアのように兄を探しに行く妹もあまりいない。鬼滅の刃も妹を守る兄の話だった。あの妹も兄を守るが、あくまでも兄に対する献身にすぎない。

この映画の好きなところは、シュリが兄の死にちゃんとめちゃくちゃ動揺するし、誰かが守ってくれることで解決したりしないところだ。

 

黒人女性が主役の映画

実は黒人女性が主人公の映画を初めて見たかもしれない。

主演だけでなく、黒人の女の人がメインの映画という意味で。

新キャラも黒人の女性。リリの「若くて才能ある黒人だからさ、ワカンダじゃ言わないか」という皮肉や、「悪役が女の衣装を変えさせるときは気を付けろ」と言ってレイア姫を引き合いに出したのが印象的だった。オコエのようなつよつよ戦士ではなく技術系なのに、けっこう戦うのが何かスターウォーズみたいだ。

リリ好きだな、同じスターウォーズファン(多分)として、次回作でのさらなる活躍に期待したい。

 

さっぱり系ヴィラン

前作もそうだったけど、ヴィランがネチネチ気持ち悪いタイプではないので見やすい。

妙に潔いし、平気で人を殺す割には瞳が澄んでいて格好いいので、あんたほんとに人殺したの?となってしまう。

いやそういう人だから殺せるという話だ、ということは分かるけれども。

 

シュリに感情移入しすぎている末っ子としては…

ラストに甥っ子が登場するわけだが、これはシュリにだけ知らされていなかったということですよね。

ちょっとそれ寂しくないか、はよ言わんかい!となってしまい、どういう気持ちで見ていいのか分からなくなった。

シュリ頑張ってほしいまじで。

 

 

 

恋愛したことないし今後もしないけど、そこそこ楽しく生きている

ということを誰かに伝えたくて、この度ブログを始めることにした。

ここでは自己紹介をする。有益なことは何も書いていないので誰も読まないかもしれないが、読んでくれたら嬉しい。私にとっては有益なのですべて良しなのである。

 

今のところ、私は自らのセクシャリティアロマンティック・アセクシャルスペクトラムに該当する、と認識している。

 

いつかその認識は変わるかもしれない。しかし、今、これまでの人生を振り返ると、そうだとしか言えない、そういう経験をしてきたという事実がある。

 

他者との関係性に関する欲求がなんか薄い

私はこれまで、他者に継続してロマンティックな感情を持ったことがない。

美しいな、とか優しい人だな、と思うことはあるし、他人と親しくなることはあるが、その親しい人と恋愛的な関係になりたいとか、占有したいという感覚が根本的に「ない」のである。

また、他者に対して継続して性的な魅力を感じたり、性的な関係になりたいと思ったことや、相手を占有したいという欲求がない。やはり根本的にそういった感覚が「ない」。

今まで出会った「好きな人」はたくさんいるのだが、私にとってその人たちはもうすでに特別な存在なので、わざわざ恋愛とか性愛に持ち込まなくても良かろう、という感覚である。分かるだろうか。分からなくても良いがここは大切なので何とか分かってほしいところだ。

友達が他の人と仲良くしていても気にならない人は多いのではないだろうか。そういう感じである。ただし、友情と恋愛・性愛の区別がないわけではなく、わりと明確に区別しており、その上で、恋愛・性愛は「ない」という認識がある。

 

ちなみに他人の恋愛や性愛については、どうでもよかったり、喜ばしく思ったり、滑稽に思ったりする。これはアロマンティック・アセクシャルでない人たちとさほど変わりないのではないだろうか。

ただ、「私もこんな素敵な恋愛をしたいな」というような憧れは毛ほどもないし、「結局恋愛してハッピーエンドかよ」などと感じたりすることはあり、その辺の差はあるかもしれない。

とはいえ、アロマンティック・アセクシャルであっても恋愛に憧れる人や、恋愛の物語を自分事のように楽しむ人もいるので、あくまでも私がこう思うことと私のセクシャリティは密接に関わっていると感じるという話であって、一般論ではない。

 

恋愛とか性愛、ジェンダーアイデンティティとの関わり、めちゃつよ

一般にジェンダーアイデンティティセクシャリティは密接に関わり合うものであると認識しているが、私自身に関する感覚もまたそうである。どうあっても切り離せないのである。

 

私は自分を「男性ではない」と認識している。

男性ではないということは、女性であるということを意味しない。

人間の性別は男女のみであると考えている人が多数なので、そういう世界では私のような人間は認識されにくい。

「女性である」と認識される限り、私の「男性ではない」部分は侵害されないが、私自身が「女性である」と認識していないことは無視され、振り返られることもない。一部、女性であることを平気で引き受けられる場面もあるが、どうしても無理なものがある。

その最たるものが「彼女」「妻」「母」と呼ばれることである。幸運にも、今までそう呼ばれたことはない。誰かの彼女や妻や母であったことはないし、これから先も絶対にないという強い思いがある。これだけはどうしても無理なのである。うまく説明できないが、そうなってしまったら「終わり」なので、そうなる可能性は徹底的に排除しなければならないと思っている。本気で命の危機を感じるのである。

「彼女」「妻」になることを何としても避けたいことと、パートナー願望が根本的にないことが繋がっているのは、私が私として生存するための戦略かもしれないと思っている。

 

本気で人を好きになったことがない?

かつて友人に、君は本気で人を好きになれないだろう、一生一人だよ、と言われたことがある。

その時はションボリしたものだが、果たしてその友人の言う通りであった。その友人にとって「本気で人を好きになる」は恋愛的に/性的に好きになることを指していたのだろうし、人というものはパートナーとともに生きるものだという前提があったのだろう。私もそう認識していたからこそ、その言葉に落ち込んだのである。

私は35年の人生の中でたくさんの人と出会っているが、未だにそういった相手に出会っていないし、そもそも出会いたいという欲求が「ない」。

「本気で好きになる」とはどういうことかよく分からないのだが、基本的に人間は好きだ。友人や兄弟と出掛けたり、どうでもいい話をしたりするのが好きだ。人が書いた本や漫画のことをずっと考えていたり、人が作った映画にのめり込んだり、人のあり方に愛おしさを感じたり、憧れたりする。人類みな兄弟だとわりと本気で思っているし、大切な人が不当な扱いを受けていたら怒るし、死んだらつらい。

それは本気で人を好きになることとは違うのかもしれないが、私の好きはそういう好きなので、それはそれでいいのである。私の人生は私のものである。私の身体をどう扱うかも、私のものなのである。

 

いや、人生わりと楽しいんですけど…

今はこのような言葉で自分のことを説明することができるし、インターネット・トロールに理解してもらえなくても何ら問題はないが、身近な人にはやはり理解してもらいたい。

実家に帰省する度、90代の祖母が「おまえのことを好きになる男の人はいないのか」と言って、私が独身であることを嘆きまくるのだが、いくら言っても私がそこそこ楽しく生きていることを理解してもらえない。おそらく祖母は私のことを不幸な孫だと思ったまま死ぬことになるだろう。

 

祖母の認識を変えるには間に合わないかもしれないが、恋愛至上主義をコケにしつつ、ネチネチ、チマチマと活動していく所存である。